2024年07月30日
佛立宗の古刹を訪ねて⑬ 慶長14年に伊賀の地へ 妙典寺① 明治17年に開導聖人より伊賀組といただく
本隆山妙典寺は慶長14年(1609年)、戦国武将で築城の名手とうたわれた藤堂高虎が、伊勢・伊賀の領主になった時、慧光院日詠大覚が家老寺として伊予の国より移転し、当地での開基になった。寺禄十石、50人扶持。境内地は一千坪以上であった。(伊賀城下町絵図記載)
伊賀城家老・藤堂新七郎良勝(高虎の従兄弟)が本堂須弥壇を寄付、津城代格・藤堂仁右衛門高刑(高虎の甥)が、雨降り祈願にて、城中に在った朱塗りの薬医門を寄付(一説には朱塗門の使用を許される)。
慧光院は実にたくましく、力比べでは十人力はあろうという噂で、その力もちに恐れをなし慶長、寛永の頃には伊賀の国守たちは彼に帰依し、何くれとなく彼に援助してきた。高虎、高次親子もその帰依者として有名である。(北出楯夫著・伊賀の伝説より)
寛永5年(1628年)備前の蓮昌寺の日祥に住職を譲り京都妙蓮寺末となる。時代は下り安政の伊賀地震以降には本堂庫裏は倒壊して無住状態となり、本能寺末の妙昌寺住職に16世兼務を仰ぐ状態となった。
明治初年より本門佛立講丹波要唱組副組長・猪阪松之助氏が、柘植地方へ製茶の仕事に来られ東柘植村で数人を教化される。交通手段は不明ながら昔から柘植は京都・神戸・山陽山陰方面から伊勢へのメインルートに位置していた。
明治17年(1884年)2月28日、大尊師(開導聖人)より「本門佛立講伊賀組 凡30名 組名一紙と御本尊50枚を施与す猪阪松之助へ」「伊賀組 講元今堀兵太 副 岡沢伊三郎」と記される。(扇全8巻254頁)
明治23年2月、関西鉄道草津線柘植~草津間開通。7月17日、開導日扇聖人ご遷化。
明治25年、開導聖人御3回忌を期して報恩教化誓願100戸を発願された京都の灘清辰師が、猪阪氏の後を引き継いで柘植上野方面の弘通に当たられる。
明治26年11月1日、日聞上人より「本門佛立講伊賀西真清組」の組名賜る。
明治27年、宮田兼松氏宅を仮道場として日聞上人御親修にて御会式奉修。
明治28年5月23日、岡沢伊三郎氏宅を借用して当時の三重県知事・成川尚義氏より「宥清寺伊賀出張所」として認可される。9月上浣に板御本尊御染筆ご遷座。(平成22年5月23日、妙典寺新本堂開堂式にこの板御本尊を拡大複製させていただいてご遷座させていただく)
明治29年、上野にも教化ができて何戸かの信者があり、忍町に上野仮親会場を設け日聞上人の親教を受ける。「明治29年7月親会場」の銘のある線香立現存。同年9月1日付けで日聞上人より「本門佛立講上野西真清組」の組名賜る。組長松尾平治 副組長吉中清次郎 取締吉沢伊太馬(妙典寺所蔵)
明治30年1月 関西鉄道柘植~加茂間開通。
妙見堂を買収して柘植親会場とする。
明治33年11月、日聞上人のお骨折りにより妙典寺を本門法華宗より佛立講に入手。同35年に本堂を再建し伊賀支部を創設する。(佛立開講百年史記載)
明治34年、日聞上人の学徒名「清喬」拝にて妙典寺本堂の廉「教化即自行」「経力即折伏」御染筆賜る。明治37年、柘植親会場敷地を買い受ける。
明治38年月9月1日、伊賀地方弘通の草分・猪坂松之助氏、行年50歳にて帰寂される。
明治44年8月25日、日聞上人、御寿59歳にてご遷化。阿部現実師(久成院日在上人)、妙典寺住職を継がれる。また柘植親会場の責任者となられる。得度年月日不明ながら今堀兵太氏は阿部上人のお弟子になり現益師と名乗られる。同年12月21日、灘清辰師、伊賀・上野方面の弘通に多大の功績を残し帰寂される。
大正初期、阿部上人のご指導の下、今堀師が四日市方面のご弘通に当たられる。毎月25円のご奉公資金を日在上人、灘吉之助、伊賀西真清組よりご有志されたと伝えられる。
大正6年12月4日、日隨上人より「四日市清辰組」の組名をいただき常什・御本尊のお開眼を賜り、上新町の柘植勘七氏宅の仮道場にご奉安される。後に四日市教会・本扇寺へと発展する。
同年、阿部上人は妙典寺本堂庫裡を改修され、津市の寺島家より民女と結婚、泰女をもうけるが民女が帰寂、後妻として妹の琴女と再婚される。そのご縁を生かして、阿部上人は津に下種教化に励まれ、津清組を創設、必ず津にも親会場を建立せよとの仰せあり。
時が熟し阿波親会場を昭和32年(1957年)、津に遷し、久成山清津寺の開筵式を挙行された。(つづく)
