ほんもんぶつりゅうしゅう
2024年07月30日
門祖会並びに権大僧正日操上人御27回忌を奉修
第1支庁・妙福寺(住職・松本現薫)において3月24日、神戸香風寺・権大僧正・福岡日雙上人奉修導師のもと、門祖会並びに当山第4世妙福寺中興開基・権大僧正日操上人御27回忌を奉修した。
小雨が降る中ではあったが、予報ほど大雨にもならず仏天のご加護のもと無事に奉修することができた。有縁の小野山日住師、御牧淳宥師はじめ京都布教区長・津村清種師など参列、親族・招待者、寺内代表者が順次焼香を行い、日操上人のご遺徳をお偲びした。
日操上人は、開導聖人の末弟・松本日華上人を御尊父に、佛立第2世講有日聞上人のご息女・ふみ女を母に大正5年、韓国釜山にてご誕生。日華上人が釜山長松寺を建立し、軌道に乗り始めた大正末期に松本家は日本に居を移し、15歳の時、浅田日遠上人を師として大阪圓妙寺にて得度、「現壽」の僧名を拝受された。
その後、日本大学宗教科に入学、東京清雄寺に寄宿し勉学とご奉公に励まれた。さらに昭和15年には本門法華宗 学林専攻科、同18年には立命館大学法文学部史学科を卒業。その間、昭和17年3月には、父・日華上人の後を継ぎ、宥清寺伏見支部の担任のご奉公を拝命。
抑々、妙福寺はおよそ500年前、本門法華宗妙蓮寺末の寺院として上鳥羽の地に草創されたが、無住のまま時が過ぎ名前のみが残されていた。一方、明治25年、開導日扇聖人御3回忌の折、報恩教化運動が起こり、京都堅信組のお教化のご奉公により伏見の地に弘通の端緒が開かれた。
そして明治31年、宥清寺説教所として佛立第2世講有日聞上人の開基により道場を建立、大正3年に宥清寺伏見支部となったのである。
昭和18年には、本門法華宗妙蓮寺の妙福寺と弘通活動の実績のある宥清寺伏見支部を合併し、「本門佛立宗 妙福寺」として再出発を果たす。時の住職は日操上人であったが日華上人を第3世に、歴代伏見支部担任を歴世として法脈を重んじご奉公を展開。後に2度の本堂建立を果たし、法城を拡大されたるは上人弘通家の証明とも言える。
そればかりではなく、佛立教学の研鑽・宗政の施行に関してもその学識人望は篤く、宗内に於いては第1期宗政会議議員、佛立教育専門学校校長、高祖700回御遠諱奉賛局局長、奉賛本部長。弘通顧問等と、宗内の要職を歴任され、その功績は枚挙に暇がない。
高祖700回御遠諱から始められた「誕生自祝運動」、さらに百万霊会回向運動は、日操上人の発案により提唱され、確固たる信心教学の上に、斬新なアイデアでご弘通を牽引してくださった。
法要の中では、薫化会活動に心を砕いておられた日操上人にお喜びいただけるようにと、13歳成長御礼・小中学校卒入学御礼の言上があり、記念品が授与された。御法門前には上人を偲びご生涯を振り返る映像が放映され、上人のご弘通ご奉公の功績の偉大さを改めて学んだ。
御法門前段では、日雙上人が学生時代、青年会の交流で妙福寺に来寺され、得度前の妙福寺先住日延上人に得度を勧めようとされた折、日操上人と交流を持ち、ご自身得度のきっかけとなったエピソードなどをお話しくださった。
御法門は「現証の御利益あればおのづから 人の信ずる妙法の五字」を引かれ、現証のご利益の実感こそがご弘通のカギと、イタリアとスリランカといった海外弘通の現場で体験された現証談を紹介され、ユーモアを交えてお話くださった。
ご年回の節目は終えたが、妙福寺では今年1年間が報恩ご奉公の年。門祖会のご奉公を糧に、より一層、菩薩行に励ませていただくことをお誓いする機会となった。