ほんもんぶつりゅうしゅう
2018年09月01日
日蓮大士ご降誕800年記念シリーズ その1 日蓮聖人の出家の動機

Q 日蓮聖人はどのような動機、いきさつがあって出家され僧侶となられたのですか。

 日蓮聖人(以下、聖人と略す)は1222年(承久4年)2月16日、現在の千葉県房総半島の太平洋に面する天津小湊町にお生れになりました。
 聖人ご誕生の前年には倒幕運動に失敗した後鳥羽、順徳、土御門の三上皇が、それぞれ隠岐、佐渡、土佐に流されるという事件、承久の変が起きています。
 聖人の父君はもと現在の静岡県に所領をもつ貫名重忠と称する武家であったとされています。また今年の研究では聖人は後鳥羽上皇のご落胤であろうという説も生まれています。聖人ご自身はその出生について、「海女(あま)が子」(本尊問答抄)、「民が子」(中興入道御消息)と記されているのみで、くわしいことは伺い知ることはできません。
 聖人が生まれられた小湊の漁村から北へ約8キロのところにある天台宗寺院、清澄寺(きよすみでら)に入られ、本格的に学問に励まれるようになったのは12歳でした。
 聖人が清澄寺に入られて間もない頃、まだ少年であった聖人があまりにも鮮やかに漢籍や仏教書を読んでみせたので、たまたま寺を訪れていた道義房という僧(聖人の師、道善房の兄)は驚いて「他日、我が門を興さん者はこの子か」と述べたという逸話が残っていることや、聖人の家庭がさして困窮していたとも思われないことから考えて、我が子の恵まれた才能を生かすための修学、勉学の道を歩ませるためのお寺に入れられたのだと思われます。
 聖人ご自身も「幼少の時より学文に心をかけし上、・・・・・12のとしよりこの願を立つ」(破良観等御書)と話しておられるところからすると、聖人ご自身も向学心に燃え、すすんで入寺し勉学を志されていたことがうかがえます。
 日蓮聖人が善日麿という幼名を蓮長と改め、正式に出家得度されたのは16歳の時でしたが、聖人はこの頃から当時の仏教界の状況に疑問を懐かれるようになりました。聖人が懐かれた疑問とは、
「倶舎宗、成実宗、律宗、法相宗、三論宗、華厳宗、真言宗、法華天台宗と申す宗どもあまた有りときく上に、禅宗、浄土宗と申す宗も候なり。・…我等がはかなき心を推するには仏法は唯一味なるべし」(妙法尼御返事)というものでした。
 少年僧、蓮長のこの疑問には、師、道善房も答えることができず、蓮長(日蓮聖人)はご自身でこの疑問を晴らすべく鎌倉に赴かれることになります。
 聖人は鎌倉遊学中の4ヵ年に主に浄土宗、禅宗の教義を学ばれました。その後、聖人はさらに綿密に仏法を研鑽するため、当時日本随一の学問所であった比叡山延暦寺に入山、以後32歳で山を去られるまでの11年間、ひたすら行学二道に精進されたのですが、この間に聖人は京都、奈良、大阪、高野山の諸寺院にも足を伸ばされて諸宗の教義や信心のあり方を研究なさることになります。